風化風葬

つたえきれない

まちあわせ

何日かおきに、アクセスが来ている。ひさしぶりにこのブログを開いて、まだ見てくれている人がいることに驚いて、でも誰だかわからないその人に向けて書くのもどうにも面白くないので、やっぱり自分に向けて自分の言葉。内向き内心吐露手帳、今日はたまを聞きながら。

古いのに新しい、こんな音楽がイカ天の時代から存在していたということに驚く。面白いけど、コミカルに底抜けにハッピーな面白いにしようと思って作ってない面白さ。演劇のワンシーンのような、セリフ、沢山の楽器の音色、日常の端切れの切り取り、ちょっと怖くて不気味で悲しい、知久さんの声は温かくて、日曜の夜は泳げないから魚になりたくない子供たちの記憶に足からズブズブ引き込まれて、気づいたら手を止めてじっと聞いている。メロディが口ずさめる音楽はステキだ。思わず呟きたくなる言葉遣いの歌詞がステキだ。

さいきんよく聴いている大森靖子ちゃんもそうだけど、ずっとずっと聴いてると頭がおかしくなりそうなので一周以上はしない。それくらい強力だ。

 粉がついてる口のまわりにハムカツの、という不明すぎる歌詞を3回も繰り返して楽器もほぼ演奏せず突然のアカペラでイカ天五週目の正念場に立ち向かっていったこのバンドが、細細と22歳の私を待ちつづけていてくれた気がして。ありがとう、と言いたい




ひしひしし

過ぎ去ったらもう古い。常に一瞬は一瞬で、飯くって、ねて、おきて、いつか死ぬんでおわり。その間にどれだけもがけますか?わたしはいつももがくことを考えてばかりでもがいて居ないのかもしれない。動け。どんなにこの足がひ弱で速く走れなくて自転車も漕げなくて水の中も泳げなくてただ歩き続けることだけしか出来なくとも。足の用途を変えるにはそれはもうあまりにも遥か昔に過ぎ去ってしまった。私はのろまでどじでくずでばかだけれど、全部わからないわけじゃない。私もつくる。なにかつくる。静かにひしひしと、燃えている

屑音楽

スカムミュージックを知った私はもう新しい、ひとつ手に入れてそれ以前の自分を失って見方が変わってもう新しい。下手であること、ゴミであってクズであってそれで伝わるものもあるということ、上手がイチバンじゃないってこと、もう一気に身体の力が抜けてしまうくらいその存在に衝撃を受けて、存在を括る言葉「スカムミュージック」がそもそも存在していたことにも感銘を受けた。ただこれは私の技術不足の言い訳として提示するにはあまりにも高尚な技術だから根本的解決には至らない。至らないものの未完成を放出することへの躊躇いの無さを引き受けて真似することは出来る。ためらうな、ためらうなよ私。いつだって心にスカムミュージック。どつくぞ




音楽の下手加減が恋愛の下手加減や日常における感情表現の下手加減をリアルに感じさせてくれるものだと

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だーだー

天気がぐずついている。私もなんだか、生活奮わない。バイト先の非常階段の死ぬほど汚かった床が死ぬほど綺麗になっていて、あんなにドス黒かったものがこんなにも消えるものなのかと、拍子抜けしてしまうくらい。わたしもこれくらいごっそりと、綺麗に変わってみたい

ぽつ

なんだかんだの慌ただしい日々で、いつの間にかいろんなことが変わっていたり。切なくて、やるせない。

好きな人間がひとり、どこかに行ってしまったようだ。またひとり、ひとり、

咳が止まらない魔法にかかっている。決して風邪なんかじゃなくて、魔法のほうが素敵だから。迷惑だけど。おい。なんもかんも吹き飛ばすぞ咳で。

やること見据えて、構えるポーズ。

間抜けなポーズでも、構えたら負けじゃないから。


ぶんぶん

また長いこと文章を書かないでいた。いつも私は何かに触発されないと書けない人間だ。しかし逆に言えば、何らかのテキストに触発され続けていれば書き続けることも可能なのだろう。

今日のテキスト:ウェブライターよ、なぜ君たちはこれほど文章がヘタなのか?

私は子供の頃から誤字脱字が大嫌いで、文章を書く際には細心の注意を払って書くことが普通だった。人が間違えているのを見るのも恥ずかしい。漢字検定にも小学校からずっと取り組んでいたせいか、送り仮名を間違える人間などは全く理解が出来なかった。誤字脱字のある人間は教師であろうと完全にバカにしていた。高慢ちきな子供だった。高校、大学と進んでも周囲の人間の誤字脱字は一向に減らず、イライラしたことが何度もある。メールやラインの誤字脱字なんて、送信前に確認すれば回避できるミスなのに、どうしてそれが出来ないのか。時には自分が文章校正に拘りすぎていて他の人間には見えている何かを見落としているのでは…と思い必死に考えてみたが、文章校正(あるいは構成)以上に大事なものなんてあるだろうか。少なくともケータイの画面や紙とペンを目前にした瞬間に。そこには文字と貴方以外の第三者は存在しない。きちんと相手を見据えていればそこに齟齬は生まれないのだ。

なんやかんや言ったが、わたしは文字を、文章を大事にする人が好きだ。小説家も詩人も劇作家も評論家も役者もバンドマンもラッパーもみんな素敵だ。こうやってたまに私も作文をして、衰えないように生きていたい。もう22年も生きてしまった。頭も体もほどよく使って、ほどよく愛をあげたい。


紙をひく

のびた爪をパチパチと切る。毛羽立った絨毯の上に紙をひいて、そこからはみ出さないようにそーっとそーっと切る。ときどき紙をゆすぶって、真ん中に切った爪を集める。右手右足、左手左足まで切りおわったら紙をくしゃくしゃと中心に向けて丸めて、中身がこぼれないようにぎゅっと固めて捨てる。爪切りのてこの部分(ハンドルと呼ぶのかなあ)をパチンと元に戻して、自分の家に返してあげる。たまに爪切りの奥から切った爪が飛び出してくることがあって、それがまたたまに絨毯の間に潜んでいることがあって、それを踏むとびっくりするとともに少し恨めしくおもう。そんなに痛くはないけれど、自分が作った落とし穴に自分ではまってしまうのに似ている。いつでも私に作用しているのは、過去の私にほかならない。

爪、という漢字をとてもアーティスティックに感じる自分の感性を褒めたい

天気が良い。ゆっくりと家で過ごしている。洗濯物が乾いていくのを眺めて、就職についてぼんやり考えて、今の生活を向上させる方策を練ってみる。私は絵も好きだけど、書も好きだったことを最近おもいだした。なにかできるかもしれない。心はうねうねと踊りながら歩き始めている。

天気が良くても悪くても 私は晴れているんです